死と墓とOSSの動機

親族が田舎に集まる年越しの折、爺ちゃん婆ちゃんが本人達の墓の話をしていた。
ちなみに僕の爺ちゃん婆ちゃんからは、今のところ死の気配が全くしない。
僕より筋骨隆々な爺ちゃんとロッキー山脈を踏破する婆ちゃん、全くもって健康な二人が墓の話を真剣にしていた。
「不養生な僕が先に死ぬのでは」と思いながら聞き流していた。

で、婆ちゃんは「お墓は小さくて良いので、日当たりの良い場所が良い」と言っていた。

墓、正確には墓石とその土地。
幸運なことに、僕は23年とちょっと生きてきて、親族など近しい人の死に遭遇していない。
墓参りでも葬式でも、拝むのは付き合いが深くない人が多かった。
僕にとって墓とは縁が遠いものだったので、改めてそこらへんを考えていた。

僕が考えた墓の意義は「自分が死んで体が無くなった後でも、残った人に覚えてもらう」である。
例えば爺ちゃん婆ちゃんが亡くなったとして、もちろん悲しいとは思うんだけど、時間の経過とともに記憶は薄れていくと思う。
そこで定期的に墓参りしたり仏壇を拝むことで、故人を思い出すのだろう。
死を控えている人は「覚えていてほしい」と、周囲の人は「忘れたくない」と考えるので、この双方の要望の一致に基づき墓という文化があるのかなと思った。
「生きた証を(ry」という表現もできる。
肉体というハードウェア、記憶というソフトウェアと言えるかもしれない。
ここらへんは、いくら考えてもキリが無い哲学の世界である。

自分を覚えていてほしいというだけなら、なにもでかくて高価な石である必要はないと思う。
要は他人が自分を思い出すきっかけがあれば良いわけで、とくに芸術がそれに該当するだろう。
hogehogeが描いた絵画とか、foobarが作曲した音楽とか。
作品名には作者名がついてまわるので、作品が好きな人は作者の名前も忘れないだろう。

僕が死ぬとしたら、多分覚えていてほしいと思う。なんとなく。
でも、千枚通しをダーツにして遊ぶくらいしか美術の時間が楽しくなかった僕には芸術なんて無理。
では何があるのかと言うと、プログラムがそれなのだろう。

OSSなら開発者やコミッタの名前がAWSGoogleのサーバかどこかに残り続ける。
EULAのクレジットやリポジトリのログなどをチラ見して、自分の名前を思い出してくれればそれで「思い出してほしい」という目的は達成できるだろう。

別にOSSで無くても、ソースを公開していなくても名前が出ないわけではないかもしれない。
ソフトウェアでなくても、なにか論文書いても良いのだろうし。
「経営者になればいいよ。目指せ、すちーぶじょぶず!」と言われればそれはまあそうなんだけど。
GitHubがメジャーになっている昨今、学術の世界に縁遠く経営者とかに全く興味が無い僕には、OSSがもっとも高い可能性なのだろうと思う。

もちろんお金はほしいのだが、お金で買えない体験を動機にプログラムを書くということもできれば、少なくとも僕にとってはそれも幸せのひとつなんだろうな。

というわけで、そんな感じで適当に頑張っていきたい。

あけましておめでとうございます。